すぎやまこういちとドラクエの旅路

すぎやまこういち先生の80歳を祝う某誌に掲載予定だった原稿が、雑誌の方向性がコラム中心→インタビュー中心に変わったために宙に浮いてしまいました……。で、先方の了解も得られましたので、ここに公開しておきます。くわしい人やマニアにはぬるいかもしれませんが、元もと予備知識のないオッサンも読む一般誌向けの原稿ということで、そこは大目に見てもらえればと。あとナンバリングも文字化けを手作業で直してるんで、間違いがあってもカンベンな!

●すぎやまサウンドは現代のクラシック
ドラゴンクエスト』(以下ドラクエ)シリーズを彩るすぎやまこういち氏の楽曲、それは現代のクラシックだ。国民的RPGとともにあり、様々なジャンルを遍歴してきた大人から、初めて「音楽」なるものに向きあう子供まで、年齢性別を問わず聴かれるメロディは、嗜好の細分化が激しい現代ではまれな存在と言っていい。
のみならず、ドラクエの楽曲は“時を超えた”という意味でもクラシックである。長きにわたる旅路、敵モンスターとの激しい戦闘、レベルアップのうれしさや仲間が全滅した哀しさ。常に冒険する人々を励ましてきたBGMは、魔王を倒すまでの数十時間の道のりを終えた後も、人々を勇気づけてきたのだ。
 もはや「すぎやまこういち氏といえばドラクエ」を疑う人はいない。しかし、初代ドラクエ当時、両者の巡り合わせは驚き以外の何ものでもなかった。すでに歌謡曲の大御所であり50歳を過ぎていたすぎやま氏と、まだ知る人ぞ知るの域を出ていないマイナーなジャンルだったRPGとは、いかにも不釣合な印象を与えた。
 とはいえ、氏の歩んだ道のりをたどれば、ドラクエとの出会いや、我々がすぎやま=ドラクエサウンドに魅了されるのはとても自然な成り行きと思えてくる。すぎやま氏とドラクエとがいかに引かれ合ったか、なぜ「すぎやまマジック」は人の心をつかんで放さないのか。その秘密を、歌謡曲ゲーム音楽の垣根を超えた巨匠のルーツにさかのぼって見ていくことにしよう。

●新天地に挑む冒険精神
すぎやま氏が生まれたのは、1931年(昭和6年)のこと。音楽との初めての出会いは、祖母カツさんが毎晩のように歌っていた賛美歌だった。父はマンドリン、母はギターで合奏していたというから、音楽好きの家系なのである。
音に囲まれて育ったすぎやま少年は、小学校へ進むと玩具の卓上ピアノで遊び、学芸会ではハーモニカ合奏の指揮をしていたという。作曲に興味を持ち始めた中学時代は、レコードが擦り切れるほどクラシック音楽を聞いた時期でもある。父親が物々交換で手に入れた(戦後の物資不足の中である)ベートーベンの交響曲などのSPレコードは、作曲家としてのバックボーンも作り上げたのだ。
成蹊学園での高校生活もオーケストラ部などの音楽活動に明け暮れたすぎやま氏は、当然のように音楽家になろうとした。が、試験には必ずピアノがあるために、楽器のできない(高校の文化祭のためにベースは練習していたが)すぎやま氏は断念。実直な官僚だった父の意志をついで東大理科二類に進学し、いったんは音楽から遠ざかった。
しかし大学卒業後は、仕事をしながら音楽の勉強ができるからと文化放送に入社。報道部から芸能部に転属された後、開局1年前のフジテレビへと移籍する。自らテーマ音楽も作曲した『ザ・ヒットパレード』や『おとなの漫画』といった伝説の番組を手がける、敏腕ディレクターの誕生である。
かたや人気番組を切り盛りし、CMソングの作曲活動も活発となったすぎやま氏。やがてフジテレビを独立し、ザ・タイガース(すぎやま氏が名付け親である)に提供した曲が次々とヒットを飛ばすに連れて、作曲活動一本に絞る決意を固めるにいたった。
若い女性たちを熱狂させたグループサウンズの代表的な楽曲の数々、人気番組からテレビCMまで全国区のメジャー感。しかし、すぎやま氏の基礎はあくまで「クラシック」にあった。そもそも文化放送に入社できたのも、氏が高校三年の時に書いたバレエの曲が、当時の音楽部長だった人物の目に止まったのがきっかけだったのだ。
ザ・タイガースの曲も「僕のマリー」は第一楽章、「シーサイド・バウンド」は第二楽章……と次々と出るシングルを並べると、一つの組曲になるようにしようと思ったという。ここにはすでに「複数の曲を組み合わせることで、一つの世界観を作る」ゲームミュージックに向き合う姿勢がうかがえる。
 また、すぎやま氏が入社した当時のテレビ局は、よく言っても可能性は未知数。しかも開局の1年前とあれば、海のものとも山のものともつかなかった。「テレビにこそ音楽番組の未来はある」と信じ、自ら志願した(フジテレビに出資した文化放送は、社内で転属したい人を募った)すぎやま氏のパイオニア精神は、ゲームという新天地でも発揮されることになる。

ドラクエの序曲は「5分+54年」の成果
70年代初めにフォークソングのブームが過ぎ去ったあと、それを支えた作曲家たちの多くが歩んだ道は「サウンド勝負」だったという。特定の歌手ユニットに頼らない、自らの音を武器としたアーティストとしての一本立ちだ。まだ高価ながらも、従来の楽器では出せないサウンドを奏でられるシンセサイザーの発達に力を得たのである。
そうした動きに背を向けて、すぎやま氏が目指した新天地はアニメなどの主題歌や劇伴だった。『科学忍者隊ガッチャマン?』や『伝説巨神イデオン』といった作品を盛り上げた音楽は、日常から戦闘まで様々な状況を表現する組曲的であり、多彩な楽器を使うオーケストラ志向ではある。 
そんな80年代半ば、ついにすぎやま氏とゲーム・ミュージックが出会う日がやってきた。きっかけは、一枚のハガキだ。パソコンソフトの『森田将棋』を遊んだすぎやま氏が、販売元のエニックス(現スクウェア・エニックス)にアンケートを送ったのである。それを見かけた千田幸信氏(ドラクエシリーズのプロデューサーで現スクウェア・エニックス取締役)はすぎやま氏に電話でコンタクトを取ったという。ちなみに、氏が最初に手がけたゲーム音楽ドラクエではなく『ウイングマン2−キータクラーの復活』である。
この時代は、どんなゲームでも出せば10万本以上は確実に売れるほどの“ファミコンバブル”に沸き返っており、プロの作曲家に声がかかることも珍しくはなかった。しかし、実際に応じた人物は、すぎやま氏や浅倉大介氏(パソコンソフト『ディーヴァ』シリーズなど)や羽田健太郎氏(ファミコン版『ウィザードリィ』シリーズ)の他はほとんどいない。
ファミコンの音源が使える音色は、基本的に4つのみ。宝箱を開けるなどの効果音に使う一音を除けば、実質3トラックしかない。そんな悪条件を「サウンド勝負」の作曲家たちが避けたなか、バッハを「大先輩」と呼ぶすぎやま氏は3トラックの土俵の上での「メロディ勝負」に挑んだのである。
 すぎやま氏本人は大乗り気でも、初代ドラクエを制作している開発スタッフは戸惑った。開発を担当したチュンソフトは、当時20代前半だったメインプログラマー中村光一氏を筆頭に、若さあふれる現場だった。しかも開発はある程度進んでおり、サウンドプログラマーによる音楽ができていた段階でのこと。いくら有名な作曲家だといっても、ゲームを知らなければ本当にいいゲーム音楽を作れるわけがない−−と若者達が反発したのも無理はない。
しかし、すぎやま氏は「元祖プロ・ゲーマー」を自称する筋金入りのゲーム好きだった。中でも若い頃にハマったというビンゴゲーム(玉を打ってラインを揃えるゲーム)の話題で中村氏達と意気投合し、正式に作曲を依頼することになったのだ。
その際、ゲーム音楽についての考えを聞かれたすぎやま氏は「レコードのヒット曲作りとは全く逆」と答えたという。ヒット曲で大切なのは一度聞いただけで与えられるインパクトだが、数カ月後には飽きられる。ゲーム音楽はその逆で、何回聞いても飽きない「聞きべりのしない」曲でなければならない。すぎやま氏と中村氏は「ゲーム音楽は何十年何百年と人に聞いてもらえるクラシック音楽だ」ということで意見の一致を見たのだという。
もはやドラクエの代名詞といえる「序曲」は、「中世ヨーロッパの冒険物語」というイメージを聞いたすぎやま氏が5分で作ったという。易々と出来たように見えるが、それまでのクラシック体験や歌謡曲、ゲーム愛の詰まった54年分の人生の上にある「5分+54年」だと氏は振り返っている。

●初期三部作でのサウンドの歩み
 ドラクエシリーズは、当初は初代〜?までの3本、いわゆる「ロト三部作」が予定されていたことが知られている。生みの親である堀井雄二氏の構想では、最終的なゴールは「III」のかたち、つまり「戦士」や「魔法使い」といった職業のキャラクターを組み合わせ、自由にパーティ(チーム)を作れることが視野に入っていた。
 しかし、最初から自由度が高すぎては、RPGになじみのない初心者ユーザーは取っ付きにくい。それに戦闘がコマンド(命令)を選んで行う方式で、アクション性のない冒険物語というシステムは、国内ではほぼ前例がなかったのだから。そこで、初代では一人旅→「II」では3人の王子と王女達の冒険→「III」といった具合に、「RPG入門編」の段階が踏まれたのである。
 ロト三部作の楽曲もまた互いの関連が深く、“組曲”的な一体感が高い。それはストーリー上で連続している事情だけでなく、初代から「II」の間隔はわずか8ヶ月、さらに「III」も約1年でリリースされた、気持ちの“途切れなさ”からも来ているのだろう。
 初代ドラクエの楽曲の中で最もスタッフが違和感を覚えたのは、フィールド曲(世界を歩くときのBGM)「広野を行く」だったという。世界の命運を背負った勇壮な戦士とは対極にある、心細さを漂わせた曲に「中世ヨーロッパの冒険物語」の想像を膨らませていた彼らが反対したのは無理もない。
 そこで、とりあえずこの曲をゲームに乗せて、その間にすぎやま氏が新たな曲を考えるという線で作業は進められた。すると、いつの間にか開発現場ではみんなが鼻歌で歌っていたという。たった一人で旅する勇者の孤独と不安、プレイヤーへの「親しみやすさ」を狙った曲は、全てのドラクエの原点であるアレフガルドの地とともに、人々の心に深く刻み込まれたのだ。
 そしてゲーム音楽は、ゲーム体験を深めるためにある−−初代の洞窟のテーマは、そんな基本を静かに確認している。地下1階から2階、2階から3階へと下るにつれて、曲のテンポは遅くなり、音程も低く落とされる。より強力な敵モンスターの待つフロアに踏み込む怖さ、真の敵「りゅうおう」に一歩ずつ近づく高揚感をとらえた“ゲーム的編曲”は、他の劇伴では体験できないものだ。

●苦難の果てに待つ「この道わが旅」の感動
 続く「II」では、一人旅から3人パーティに移行するにともない、フィールド曲もさらに充実した。まず、最初の主人公・ローレシアの王子が旅立つときの「遥かなる旅路」(ふたり旅の時もこのBGM)。そしてムーンブルクの王女サマルトリアの王子が加わり、3人がそろってからの「果てしなき世界」の二部構成だ。
 前者はすぎやま氏が「ロシアの広大な大地を思い浮かべた」というように、ローレシアの王子がたった一人旅立つ心細さ。それと比べて後者はロトの勇者の子孫、三人の仲間が力を合わせる頼もしさが伝わる。こと情感たっぷりな「遥かなる旅路」の人気は高く、わざと一人を戦闘不能にしてまで浸ろうとするプレイヤーがいるほどである。
 クラシック調で統一された「II」の楽曲の中で、復活の呪文(パスワード)を入力する画面のBGMはポップス調で、少し浮いた印象を受ける。この「LOVE SONG探して」と名付けられた曲は牧野アンナという新人歌手を売り出すためのタイアップものだったからだ。しかし、その結果は……。この曲は替え歌にされ、今も千葉ロッテマリーンズの応援歌「俺たちの誇り」として熱唱されている。
 「II」の白眉は、エンディング曲の「この道わが旅」だろう。「すいもんのかぎ」を探すため世界を駆け巡り、練りこみ不足のせいで(開発期間が1年未満である)ロンダルキアの洞窟の意地悪な落とし穴や敵モンスターの凄まじい強さでプレイヤーを戦慄させた「II」は、シリーズ9作の中でも「耐え忍ぶ旅」の想いが強烈だ。
 この古傷を優しく包みこむ曲は、後に歌詞が付けられ、スピンオフ作品であるアニメ『ダイの大冒険』のエンディングにも採用された。「出会いと別れを繰り返しながら」というフレーズを耳にした「II」ユーザーは、今までの苦労が報われた思いがしたことだろう。それは冒険の思い出を通じてゲームの外でも人と人がつながる、ドラクエのもう一つのテーマも象徴している。

●「III」のサウンドはゲームの進化も反映
 最終的な売上が380万本を超え、発売日に数キロにも及ぶ行列がニュースにも報道された『III』は、社会的現象の色合いさえ帯び始めた。ついにはテレビやラジオをも巻き込み、多くの芸能人もドラクエ好きを標榜してやまない一大ムーブメントを巻き起こす。ついにはラジオ番組『鴻上尚史オールナイトニッポン』の企画として、歌詞まで付けられた「III」のエンディングとフィールド曲のCDまで出てしまったほどだ。
 前2作のフィールド曲は「選ばれし者の孤独」をベースにしていたが、、「III」のフィールド曲「冒険の旅」はあくまで勇ましく戦う行進曲である。鴻上氏が草原や荒野をこえ、眠たい目をこすりながらまだ見ぬ街を探す徹夜プレイの日々を熱唱した音盤は、歌唱力以外の何かを伝えてくる。 
 80年代後半のファミコンソフトは、わずかな期間で飛躍的な進歩をとげるドッグイヤーを迎えており、音源のポテンシャルの引き出し方にも目を見張るも。その中でも「III」の楽曲が並ではないのは、「ゲーム内容の進歩」までも反映していることだ。たとえば終盤、世界に散らばる6つのオーブを捧げると復活する神鳥ラーミアのテーマ曲である「おおぞらをとぶ」がそれだ。
 ラーミアは勇者一行を背中に乗せて大空を羽ばたく。その勇姿は船から始まった「乗り物」の進化系であり、諸悪の根源である最強の敵・大魔王ゾーマにいたる最後の飛行という意味も帯びている。単品でも非常に完成度の高い曲だが、ユーザー人気がずば抜けて高いのは、ゲームの進行と一体になった記憶によるのだろう。
 そんな「ゲームミュージック」の一つの頂点に達したのが、大魔王との決戦を鼓舞する「勇者の挑戦」だ。前半は初代の「広野を行く」、後半は「II」の「遥かなる旅路」のアレンジ。これは「III」が前2作の数百年前の世界という衝撃の真実を示すと同時に、この曲が魔王の強大さよりも「強敵に立ち向かう勇者の視点」に立つことを意味している。シリーズ3作の壮大な叙事詩、ゲーマーでもあるすぎやま氏本人の心の高ぶりを込めた構成は、まさに「ドラクエ組曲」なのだ。
●「天空シリーズ」三部作の達した高み
 ロト三部作が完結を迎えた後も、ドラクエ=すぎやまサウンドは「IV」〜「VI」の、いわゆる「天空シリーズ」三部作にさらなる新境地を求める。運命に導かれしもの達が力をあわせる『IV』では、主人公たちが魔王に立ち向かうまでを描いた各章ごとに、専用のフィールド曲が用意されている周到さだ。
 故郷を滅ぼされた勇者が孤独な旅をする「勇者の故郷」の寂しさから、8人が集結したあとの「馬車のテーマ」の安らぎへの編曲がまた格別。踊り子マーニャと占い師ミネアの姉妹を中心とした第四章のみで聞ける戦闘曲「ジプシーダンス」も、この章限定ということもあり中々に熱い。なお、スピンオフ作品の『トルネコの大冒険』シリーズでは、本作の「武器商人トルネコ」のモチーフをアレンジしたものが使われている。
 そして親子三代にわたる壮大なストーリーを描いた「V」の楽曲は、シリーズ屈指のドラマ性という呼び声も高い。人生における究極の選択肢を付きつけられた後に聞く「結婚前夜」、主人公が父パパスの残した手紙を読むときの「哀愁物語」、エンディングを飾る「結婚ワルツ」は劇中での結婚式を祝う曲でもある。かつての小学生プレイヤーが家族を持ってから聞けば、また感動もひとしおではなかろうか。
 そんな前二作の流れを受けて「天空シリーズ」を締めくくる「VI」は、夢と現実二つの世界を股にかける上に、「III」の転職システムも復活したほか、カジノやスライム格闘場といったミニゲームも盛り込まれ、320万本を超える大ヒットを記録した。
 本作はスーパーファミコン用の最後のドラクエであり、すぎやま氏も各メディアで「ドラクエVIは、プロの作品」とコメントしたほどの自信作だ。スーファミの音源に楽曲を落とし込むために、『伝説のオウガバトル』などの作曲を手がけた崎元仁氏らを“サウンドプログラマー”として起用したことが、氏の本気を物語っている。
 一聴しただけでは、非常に地味。しかし数十時間におよぶ冒険の旅の中で、いくつかのテーマが共通していることに気付かされる。曲数が増えれば一曲ごとに印象が薄くなりがちなところを、特定のモチーフを軸にして繰り返すことで、プレイヤーのッ心へのフックを強めているのだ。中でも「悪のモチーフ」と銘打たれたモチーフは、街や洞窟などの曲に巨悪の影をちらつかせ、「善と悪」の構図を浮かび上がらせる。
 その果てにたどり着くボス・ムドーとの戦いで「敢然と立ち向かう」の曲が流れる興奮は鳥肌モノ。しかも、これが最終ボスではない! 一つ一つの曲のインパクトが強い初代〜「III」よりも記憶に残りにくいと言われる「VI」だが、サウンドトラックCDでまとめて聞けば、改めて奥深さに驚かされるはずだ。

●80歳にして「ドラクエX」に挑む現代の巨匠
 その後『VII』はPS1、『VIII』はPS2、『IX』はニンテンドーDSと歴代のゲームハードを総なめしたドラクエシリーズ。その中ですぎやま氏が手がけた楽曲は、なんと267曲にも及ぶ。質量ともに国民的音楽と呼ぶにふさわしい曲の数々は、フルオーケストラによる交響組曲とされ、すぎやま氏自らがタクトを振るうオーケストラコンサート「ファミリークラシックコンサート」にも10年以上通い続けるリピーターが多いという。
 そして、今年でドラクエも25周年。いよいよ10作目の『X』に注目が集まるなか、これも恒例の「すぎやまこういち東京メトロポリタン・ブラス・クインテット」のコンサートが10月に都内で開かれた。ドラクエはもちろん『ザ・ヒットパレードのテーマ曲』や『亜麻色の髪』の六曲を奏でた楽団は、わずか5人だ。室内楽クラスの小所帯は、5音で人の心が動かせるというすぎやま氏の自信の表れでもある。
 この席ですぎやま氏は、「『X』の曲はかなりできあがっている」と十本の指を広げてコメントしている。エルフやオーガ、ドワーフなど5つの種族+人間のそれぞれのキャラクターごとに色分けした曲が作られているとのことだ。毎回ドラクエをやりこむ本格ゲーマーであるすぎやま氏が徹底的にプレイしてから、「X」の音楽も完成するのだろう。今後もドラクエシリーズが、80歳を迎えたすぎやま氏とともに「この道わが旅」を末永く歩んでいくことを祈りたい。

※追記(1/9)
サマルカンドサマルトリア
ファミコン音源にチャレンジした作曲家→羽田健太郎氏を追加

以上2点、修正しました。ご指摘いただいた皆さん有難うございます。