ゆう坊に会いたい!(2042年に)

『ユリイカ』4月号の「RPGの冒険特集」にて、諸事情により掲載できなかった『ドラゴンクエストIV』のレビューを載っけておきます。天空から巨大なメテオが降ってきた日には、ちっぽけな人類ではいかんともしがたいですね(苦笑)。

 ふつう小説には、一本の物語を追うとしても1章、2章という区切りがされるし、何人もの視点に切り替わるやり方は奇抜でもなんでもない。また雑誌も記事ごとに書き手=視点が違って当たり前で、一人で全て書いているものは「個人誌」という。だから、元・雑誌ライターであり作家でもあった堀井雄二にとって、ストーリーが章立てで区切られて、新章ごとに主人公が交代する『ドラクエIV』は、“いつも通り”にすぎない。
 この章立てという組み立て方は、実のところドラクエのシリーズを貫き通してるスタイルだ。初代はプレイヤーキャラが1人、それが「II」では3人に、さらにキャラクターメイキングができて「転職」も加わった「III」に。1本ずつプレイすることがチュートリアル(説明)にもなり、新たなシステムにプレイヤーを馴染ませる、この「I」〜「III」にまたがった手ほどきを、「IV」は1本にまとめようとしている。目に見えなかった「章立て」を、あえて可視化したのである。
 第一章の『王宮の戦士たち』=戦士と仲間になるモンスター、第二章は『おてんば姫の冒険』=武闘家と僧侶と魔法使いのパーティ、『武器屋トルネコ』=まったく新たな職業である「商人」のデビュー戦というふうに、前作までの復習と、今作で追加された要素とを織りまぜてプレイヤーを導く「神の手」が透けて見える。そうしてプレイヤーと一体となった「導かれし者」の7人が、直接には操作できない“他人”になる大どんでん返しも、AI(人工知能)による戦闘システムの導入として巧みだ。
 しかし、すべての物語の定型たる章立ては、「システムの説明」に収まらない余剰の混入を許している。その結晶が、RPG史上まれに見るラスボスの悲劇だ。人間には人間の正義があるように、モンスターにも怒りや哀しみがある。この後を引く余韻は、シリーズを通しても「?」一作きりの「章立て」が積み上げた物語の高みあればこそではなかろうか


ちょうど『オタナビ』で長文コラム「月刊OUTとは何だったのか?」を書いたのと時期が近かったので、職業ライターとしての堀井雄二さんの“編集意識”、みたいな切り口を試みようとしたあとがうかがわれますねえ。

「I」〜「III」は独立したタイトルのようでいて、「I」:『ウルティマ』=世界探索型+『ウィザードリィ』=戦闘重視型RPGの基礎、「II」=3人パーティ制の導入、「III」=転職やルイーダの酒場(仲間の入れ換え)など「ウィザードリィ」にあったシステムぜんぶ、と3つで一つの「RPG教習コース」だったと思います。

そして『IV』は、『I』〜『III』と段階を踏んでやってきたコースを、たった一本で済ませようとした。第一章〜第五章は戦士から舞踏家、踊り子や商人(5/23修正。商人は「III」からあった、ということで。ご指摘して頂いた方々、ありがとうございました)というふうに「前からあった職業」から「新たに設けられた職業」に移ろっていて、ちゃんと「教習コース」のように順番を踏んでいる。

でも、第4章まではPC(プレイヤーキャラ)として操作できたアリーナやトルネコが、第5章に入るとAI操作のNPC(ノンプレイヤーキャラ)になってしまう。これ、システムが断絶しちゃってますよね

もしも『ドラクエIV』がプログラマー主導で作られていたとしたら、PC→NPCに変更されるゲームにならなかったんじゃないか? でも、堀井さんの中では、きっとつながってたんでしょうね。元もとライターで編集者だから「がらりと変わっちゃうの、ビックリするんじゃね?」って。

そういうシステムに引っ張られる理系に対する、もの書きの文系センスが『ドラクエ』シリーズを海外RPGと区別させ、ひいては『ドラクエ』の影響下にある和製RPGガラパゴス化を招いたのでは……と、いつかご本人にお聞きしたいところですが、もはや雲の上の人ですもんね。

まぁ、最後の手段としては『月刊OUT』での連載『ゆう坊のでたとこまかせ!』で呼びかけていた2042年8月27日午後3時に、お茶の水駅に集合するオフ会」でしょうか。あと33年、長生きと健康を心がけたいと思います。